1917年(大正6年)3月2日夕方5時過ぎ、下谷区龍泉寺町(現・台東区内)の開業医から警察署に連絡が入った。急病人というので往診したところ、傷害の疑いがあるというものであった。
同署の係員と警察医が現場のしもた家の二階に急行すると、部屋に敷かれた布団の上に若い女が息も絶え絶えの状態で寝ていた。枕もとには若い男が呆然として立っていた。つきそっていた開業医の説明で、男は小口末吉(30)、女は矢作よね(25)とわかった。ふたりは同年1月から、しもた家二階に間借りしている男女だった。
警察医は女の体を調べた。左の胸から乳房にかけて火傷の跡が生々しく残り、化膿していた。身体のあちこりに鋭利な刃物で薄く切った痕跡がある。下半身、陰部などに28箇所の火傷があった。左手の薬指と小指、右足の中指と小指、左足の薬指が切り取られていた。背中には、焼け火箸で「小口末吉妻、大正六年」と書かれ、腕にも同文が焼き付けられていた。
警察官は亭主の小口に事情を問いただしたが、ほうけたようになっていて要領を得ない。警察医は懸命に手当てをしたが、9時過ぎ女は絶命した。小口は傷害致死容疑で警察に連衡された。
事情聴取に、小口は次のようにこたえた。
「よねは情交の度に苛められることを要求し、それがどんどんエスカレートしていった。すべてはよねに頼まれてやったことである」。
実際、聞き込みでも、階下の大家はもちろん、隣人たちも一度も口論や悲鳴を聞いたことはなかった。
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与作よねは、吉原の遊郭のお手伝いをしていた。よねは評判の美人だったので、楼主は娼婦になるように勧めたが、よねは好きな男としか寝なかった。
栃木生まれの小口末吉は、その遊郭に大工として出入りしていて、よねと知り合った。小口は後の精神鑑定者の言葉を借りると「よく大工ができるなと思われるほどの知能」という男で、頭も顔もとるに足りない若者だったが、そんな彼によねは関心を示した。
よねのほうから誘って映画を見に行き、帰りに曖昧宿(あいまいやど)に連れ込んだ。末吉は夢を見ているような気分で、1916年(大正5年)1月、浅草区地方今戸町(現・台東区内)の牛肉屋の二階で同棲を始めた。
よねは多淫だった。二人は、毎晩のように愛欲に溺れたが、それでもよねは満足していなかった。半年もたたないうちに、亭主の留守に隣室に住む山本広治(28)という妓夫(遊郭の客引き)を引き込むようになった。まもなく内縁の妻の不貞に気づいた末吉は、翌年17年1月7日、屋根づたいに忍び込み、山本とよねが同衾している現場を押さえた。怒り狂った末吉は山本を蹴飛ばし、よねを殴りつけた。
結局よねが詫びを入れ、末吉は山本に十円の手切れ金を渡して別れさせ、心機一転のつもりでしもた家の二階に引っ越したのだった。
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事件後、東大医学部の医師が聞き書きした末吉の談話のなかに、よねとの性生活が詳しく語られている。
「色(性行為)は夜もします。外聞が悪いが、よねは色をすると泣くのです。以前は泣かなかったが、正月過ぎからだんだん泣くようになってきたのです。
大抵女のほうからするのです。晩に3,4回は欠かしません。寝るとすぐして、眠りにつくときまた1回する。私は身体が変になるといって断っても承知しません。ちんぼが立たなくなるといじって無理に立たせるのです。夜明け時分にして、朝飯をこしらえて、食べると言って起こしに来て、起きようとする時にまた布団のなかに入ってきてすることもある。起きてからすることもある。飯を食っているときに前をまくって私のところにいつかる(上に乗る)のです。
背中や尻や股の傷は私がしたのでなくて、山(山本)がしたのです。私を捨てろと山が言うたら女が捨てることはできないと言った。そうしたら山が、人をだましやがったと言って、傷をつけたのだと妻が言ってました」
浮気発覚は1月7日。よねは正月すぎから泣くようになっている。それまでよねは多淫ではあったが、被虐的嗜好はなかったように見える。つまり、山本がよねを変えた。または、よねの芯に埋もれていたマゾヒズムに山本が火をつけたのであろう。
1月末には、よねは末吉に頼んで半紙2枚に「マオトコシタ」「セケンのカガミ」と書いてもらい、それを背中に貼って、末吉に囃子をさせながら白昼の通りを歩き回り、近隣住民の失笑をかったこともある。
末吉には覗き趣味と、覗いた家から鉄瓶を盗んで集めるという奇癖があったが、セックスのほうは正常だったように思える。よねを傷つけたのは、浮気されたり、逃げられたくないためで、サディズム的嗜好のせいではなかったようだ。
「指を切るときも妻は痛くないと言った。それは山とくっついたのが悪いから、申訳のために指を切りたいと言うのだが、私がイヤだと言ったら、イヤだというのは別れる気だろう、と言って無理に指を切ってくれと言うたのです。そして指の根を糸でしばって血の出ないようにして切ったのです。指はポーンと飛びました」
末吉は傷害致死罪により一審で懲役12年の判決を受けたが、控訴中に脳溢血で死亡したといわれる。
(参考資料「20世紀にっぽん殺人辞典」福田洋著/社会思想社)